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医療法人敬清会 公園通り歯科

医療法人敬清会 公園通り歯科

〒756-0814 山口県山陽小野田市千代町1丁目8-26
(セントラルホテル1階です)
TEL: 0836-39-6983

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院長・スタッフ紹介

公園通り歯科 院長 河村 喜英

院長 河村 喜英
類猿人占い
勝にこだわるリーダータイプ、チンパンジー
趣味
仕事。勉強。たまにヨガ。
公園通り歯科を地域で1番愛される歯科医院にすること
すきな言葉
ありがとう。
患者さんへのメッセージ
患者さんの美と健康へ追求に貢献し続けることができるように、より多くの患者さんに支持されるように、日々努めております。患者さんにとり常に一番の利益を考え、ご提案をします。

経歴

平成5年
山口県立下関西高等学校卒業
平成11年
福岡歯科大学歯学部卒業
平成11年
(福岡県福岡市)歯科診療所 勤務
平成15年
(福岡県北九州市)歯科診療所 勤務
平成17年
(奈良県奈良市)山田兄弟歯科 学園前医院 勤務
平成22年
(奈良県奈良市)医療法人 理事長 就任
平成24年
山口県山陽小野田市 公園通り歯科 開業
平成29年
山口県山陽小野田市 公園通り歯科 増床移転
平成30年
医療法人敬清会 公園通り歯科 改変
令和2年
メンテナンス用ケア個室 増設
令和4年
公園通り歯科annex(ホワイトニング・メンテナンス専用サロン) 開設

所属団体及び学会

  • 日本歯科医師会会員
  • 日本歯科医学会会員
  • Dr宮島矯正大阪マスターコース会員
  • IMS ホワイトニング研究会会員
  • 専門的口腔感染症予防研究会(POIC研究会)認定 ホームケアアドバイザー
  • プレオルソ研究会(マウスピース矯正)
  • 日本ティップエッジ矯正研究会
  • 原中央幼稚園 園医
  • 山口県山陽小野田市立本山小学校 校医

自己紹介~幼少・思春期・学生編~

私の生い立ちについてお話しようと思います。お暇な方は、読まれてください。

幼少期

落ち着きがなく、とにかくよくしゃべる子供でした。 通知表に、毎回「落ち着きがない」と書かれて、母に叱られるのを繰り返していました。しかし、本人には、まったく自覚がありませんでした。
小さい頃は、図鑑を読むのと電気工作が大好きで、ハンダごて(金属を溶かしてコードをつなげる道具)でたまにヤケドをしたことを覚えています。おもちゃを分解しては、組み立てて遊んでいました。私の父は、電気工事士でしたので家には、ドライバーやペンチなどがたくさんありましたので、たぶん影響されたのでしょう。
母方の祖父母には、ずいぶんかわいがってもらっていた記憶があります。日曜のたびに、祖父母の家に遊びに行っていました。祖父母の家は、2階が歯医者さんでした。むし歯ができると、祖父の診療所で治療を受けるのですが、怖くて泣いていた記憶しかありません。今でも、自分が治療受けるのは、大嫌いです。痛いですし、型とりは気持ち悪いので苦手です。ですので、患者さんが、ちょっとでも痛そうな顔をされると、本当に申しわけない気持ちになります。

思春期のころ

高校生の頃は、将来になりたいというものはなく、勉強を熱心にやっているほうではありませんでした。当然成績はよろしくなかったのですが、高校生3年生の秋になり当時通っていた塾が、僕らできの悪い生徒を集めて特別メニューを組みました。仲間同志で、採点しながら問題集を解くというのです。友達に問題集の進み具合がわかりますので、サボるわけにもいきません。よく勉強しました。孟母三遷の教えではありませんが、環境の大切さを学びました。
冬になって、いよいよ進路を決めようとする時です。浪人はしたくなかったので、地元の工科大学にでも行こうかなと思っていたところ、祖母から「歯医者にならないか。」と言われました。「歯医者か。食いっぱぐれがなさそうだし、いいな。」という単純な理由で、歯科大学への進学を決めました。 現実はそう甘くないことを、嫌というほど、後で知ることになるのですが。

学生時代

大学の授業で、衝撃だったのは、むし歯を削って詰めた後でも、つめたものと自分の歯の隙間にむし歯ができることを知ったことです。
銀歯になったところは、二度とむし歯にはならないと本気で思っていました。実際は、詰め物と歯にわずかなすき間ができてくるので、その境目からまたむし歯になるのです。
また、詰め物やかぶせものを作る時は、削った歯の型をとり、模型をつくり、鋳型をつくって、溶かした金属を流し込む間に、細かい誤差を補正しながらつくるのですが、厳密に合わせることは非常に難しいことを知った時は、「むし歯の治療は簡単ではないな。歯は簡単に削ってはいけないな、」と思いました。
不思議だったのは、「銀歯」ついての話がなかったことです。自分の口の中に入っている金属は、何なのか分からないままでした。当時の大学では、歯に詰めたり被せたりする材料について、人間の歯の性質(硬さや、熱による伸び縮みやすさなど)から考えると一番良いものは金合金であり、見た目を優先する場合は、セラミックが良いと講義されていました。後になって調べると、銀歯は銀とパラジウムの合金で「代用金属」と呼ばれていることを知りました。銀歯は、「とりあえず」の材料だったのですね。
保険の治療で使われる「銀歯」は、歯科医学からすると正しいとは言えないわけです。

自己紹介~歯科医師編~

次に歯科医師になって、開業までを話します。これもお暇でしたら、読まれてください。

平成11年(24歳) 福岡歯科大学を卒業した私は、学生時代慣れ親しんだ、都会な福岡を離れたくないという気持ちと、Drビーチの提唱する、術者にも患者さんにもストレスのない診療を学びたいという少し真面目な考えで、福岡市内にあるA診療所に勤務することにしました。ここでは、患者さんにストレスを与えにくい診療と0コンセプトを学びました。
0コンセプトとは、医療の介入が必要なく、それぞれの人が自分で自分自身の健康管理が出来るようになった状態を医療の理想形とする考え方です。 昭和50年代にDrビーチにより、提唱されました。今でこそ、予防歯科やアンチエンジングが広く認知されていますが、当時は、決して主流派ではありませんでした。私が、学生を過ごしていた平成の始めであっても、「予防が流行ったら、歯科医師の仕事がなくなる、予防歯科なんてとんでもない話だ」言うことを公然と話す教授が、「主流派」でした。 学生時代の私は、「歯がしっかり残るほうが、人にとって幸せな事でしょ。歯を失うという人の不幸を願うなんてなんてヒドイ人達だ。それに、歯が残るように「管理をする」という仕事がきっとあるはずだ。その方がきっと楽しいよ。」 と生意気にも思っていましたので、Drビーチの0コンセプトは、私の望む歯科医療そのものでした。

平成15年(28歳)に、縁あって北九州市小倉の診療所にお世話になることになりました。
小倉の診療所は、非常に忙しい診療所でした。忙しくなった分お給料が増えましたので、福岡市で行われていたF先生主催の歯周病の研修会にでかけました。(歯科医師向けの研修会・勉強会は1日あたり、4,5万円しますので、それまでの私では、研修会に参加することは簡単ではありませんでした。)
F先生の研修を受けたことは、私にとって大きな転機となりました。今までの自分の診療が、患者さんに申し訳ないレベルだったことを知らされました。また、自分より遥かに勉強している同年代の歯科医師の存在にも衝撃を受けました。
「自分はなんと、不勉強なまま診療していたのか、今まで患者さんには申しわけないことをしてきてしまった。大学や勤務先で習ったことだけでは、不十分なのだ。同年代の先生にも大きく先を越されてしまっている。せっかく、患者さんに「有り難うございます。」と言って頂ける仕事なのだから、その言葉に恥じないようしっかり勉強しよう。」 と強く思いました。それから、仕事の休みを利用しながら、勉強会や研修会に参加しました。

次の転機は、F先生の研修会で、お知り合いになったY先生の紹介で、歯内療法(歯の根っこの治療)の研修会に参加した時です。この研修会でも衝撃を受けました。
「このまま、時々講義を聞いただけでは、間に合わない。良い先生の下で一から学び直さないと大変なことになる。」と感じていたところに、講師のY先生が勤務医を募集していると知り、「これで一から修行ができる。」と早速、奈良県のY先生の下にゆきました。 下関生まれで、福岡、小倉と、近隣を出たことがない私にとっては大冒険でしたが、いろいろなことが学べる喜びのほうが、大きかったです。

平成17年(30歳)、奈良での勤務が始まりました。
歯科医師としては7年目、同期の中には開業する人も出てくるくらい時期です。
私も特殊な治療はともかく、普通の治療はできているつもりでした。ところが、そこでの日々は、衝撃の連続でした。普通のむし歯治療で歯を削るところから、学び直しでした。奈良の診療所で「普通に」行われている診療は、今まで見た事がないくらいレベルの高いものでした。大学を卒業したばかりの歯科医師のように院長のアシスタントをしながら、空いた時間は模型を削って練習して、指導を受けるところから、始まりました。私のそれまでの6年間は、ムダだったのではないだろうかと思えました。

患者さんを受け持つようになっても、診療は、一つ一つチェックを受けながら進めました。5年の「修行」のおかげで、「普通の」ことはできるようになりました。
平成22年(35歳)、Y先生のところに、ある診療所の院長が突然亡くなってしまって閉院しなければならなくなったのだが、患者さんが困っているので手伝って欲しいという話がきました。そこで、私にやってみないかということになりました。一から組織を立ち上げてみたいと思っていたところでしたので、引き受けることにしました。ここでの経験は、開業後に大いに活かされることになりました。この診療所を手伝いながら、Y先生の診療所での「修行」はさらに2年間続きます。

Y先生の診療所での7年の勤務は、私を大きく成長させました。
Y先生には、歯科医師として基本的技術を教えていただきました。素晴らしい師に出会えた事は、私にとって幸運でした。
28歳の時に、自分のレベルのあまりの低さに衝撃を受けてから9年かかりましたが、ようやく合格点レベルになれたと思いました。
しかし、自分より優秀で上手な先生は、沢山おられますので、患者さんには、申しわけない気持ちと感謝の気持ちをもって日々診療にあたっています。今でも、月に1-2回は研修会に出かけ、少しでもよりよい診療ができるよう、わずかですが努力しております。

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